「モネ展」に行くまでに色々と考える僕
最近になって、いろいろと展覧会を観てきた。それ以前もわりと小さいころから、父に連れられて、もしくは父を連れて、いろいろと展覧会を見てきたが、高い頻度で足を運ぶようになったのは3年前くらいからだろう。
いろいろ見てきた結果、僕がどういう作品に反応するのか(同時にどういう作品については何も思わないのか)ということが明確になってきた。
僕はアートに限って言えば「は意味わかんね結局こいつは何がしたいんだ系」の作品に触れるのが好きらしい。
20世紀以降の、ダダとかシュルレアリスムとか抽象的なやつとか、そっからさらに一部のポップアートの類とかいわゆる現代アートみたいなの。
まあ、分かってたけどね。再確認した、と言った方が正しいかも。
そして、それより前の時代のは、まあそれほど好みではないということ。
例外もいろいろあるが、20世紀に入る前のいろいろ見たけど「まあ別に」って感じだったんだ。
これは、「好み」の問題だよ。
否定しているわけではない。
僕とそれらの断面積が小さかっただけ。
この「まあ別に」という感情を得るのに、実はなかなか時間がかかった。
「一般に良いとされている作品に対して、良いと思う必要は必ずしもない」ということ。
名画、名作とされている作品に対して、あまりどうとも思わないのは、自分の教養とか美的感覚が欠けているから、ではなく、それでいいんだ、という自分に素直な気持ち。
これは当たり前のようで、改めて考えることだった。
そしてこの様子をメタ的にとらえ出す僕
3月から、京都市美術館で「モネ展」が開かれている。しかし先ほど書いたとおり、印象派とよばれるものも、僕の好みではない。
この自分の感情に従って、モネ展にはいかないのが筋だろう。
いや、そうだろうか。
この小さいグループに閉じこもる感じの自分の考え、しょうもなくないか?
「僕は肉が好き。他は別に。だから野菜も別に。ニンジンとか別に。」
みたいな理論でニンジンとの縁を切るくらいしょうもない。
まあいっかいニンジン食えや。
自転車ですぐ行ける距離でやってるのに。
みたいなことを思い始めた。
もし、モネの絵を見て、感じるところがあれば、それもまた発見というもの。
その機会を自ら閉ざす自分はいかがなものか。
みたいな。
結論として、モネ展に行くことにした。
つづく
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