PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭2015
に行ってきた。
京都市美術館は近くて気軽に行けるのでよい。
また感想を書くけれど、言語に落とし込むのは無理だと思ったし、言語に落とし込むのはもったいないので、言語に落とし込むのは諦めます。テキトーに。
現代アートは、たくさん見ると疲れる。
普段見慣れないものしか置いてないし、普段聞きなれない音ばっかり聞こえてくるし、
そういうものばっかりに身を浸すと頭がグワングワンする。
普段見ているものからかけ離れているせいで、「あーこれね」と何気なくスルーすることができず、いちいち自分にぶつかってくる気がする。
物理っぽく書くと、断面積が大きい。
「美しい風景ですからきれいです」とか、「鮮やかな色なのでうきうきします」とか、そういう「順接的」というか、素直に飲み込めるようなものは見当たらない。
気持ち悪い音が聞こえてくるし、不安感をあおるし、歩きにくいし、全くもって馬鹿らしいし、眩しいし、暗すぎるし、この人たちは何をやっているんだ(こいつらこれで飯食ってんのかよ)?、という気分になる。
視覚とか聴覚とか触覚とか、それらの組み合わせ、に対して与える新しい刺激が多すぎて、地に足がつかない。
結果的に、精神が体力テストを受けさせられたような感じになり、疲れる。
ほんとに、けっこう疲れた。
もしかすると、なんでわざわざそこまでしてそんなものを見に行くのか、と思う方がいるかもしれない。
それは多分、こんな不安定な気分に身をおける機会はなかなかないから、だと思う。
普段の生活では、あんな気持ち悪い気分にはならない。
謎の表現に出会ったときに、「これに対して自分はこう応答するのか!」という楽しみがある。
『現代アートが「理解できる」高尚な感性』みたいなのは幻想だと思っているし、「理解する」気はないので、
「気分はTシャツと半パンだ!どっからでも来い!グワーーー!!!」
みたいな感じで楽しむことができた。
だからよし。みたいな。
ただ、しばらくはいいわ。次は、デザイン系のやつにしよう。
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「現代アートは、たくさん見ると疲れる」「精神が体力テストを受けさせられたような感じ」という部分を読んで、近い経験をしたことを思い出しました。無謀にも、魅力をきちんと認識した上で感じよう、望ましい解釈があるなら辿り着こう、と身構えて作品に対峙した結果、美術館を回るうちに、何を受容するでもないままにエネルギーだけが吸い取られていくような感覚に陥った記憶が・・・。
返信削除理解出来た(気がする)物や、理解は出来ないながら言い表せない魅力やエネルギーを感じる作品に過去に出会ったことがあるので、基本的には現代アート作品とも正面からがっぷり四つに組みたいのですが・・・疲れ過ぎずに見て回るためには、作品によって頃合いを見て不安定さを楽しむよう方向転換しないといけないかもしれないですね。
近い経験をしている人がいて安心(?)です。
削除>理解は出来ないながら言い表せない魅力やエネルギーを感じる作品
そういうのに出会った時に、喜怒哀楽に単純に割り切れないし、何か単純な感覚ではないけれども、琴線に触れた・インパクトを受けた、と感じる。
そういう不思議な魅力を与える作品が存在するということ、自分にはそういう微妙な反応をする心があるということ、を知ることができるのが、人間の複雑さを体感できる現代アートの魅力なのかもしれません。
僕は結構適当にいなしてしまうのですが、四つに組んで疲れ果てるというのもありだと思いますよ。
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