2021年の11月である。
未来の読者に向けて懐かしんでもらうために綴っておくが、今、日本では新型コロナウイルス感染症の流行がおさまり、愛知県で見ても1日あたり10人程度が報告される程度になっている。愛知県の人口は約800万人なので、ほぼ無視できる程度の数しか検査で引っかかっていない。素直に喜ぶべきことである。
徐々に朝晩の冷え込みが無視できないようになり、朝は既に布団外の空気に触れたくないという気持ちと戦っているし、夜に自転車で研究所から自宅へ帰るときに手が冷たい。日中はまだ過ごしやすい気温なので、休日は外に出たりしている。
現所属に着任したのが2019年。実験系を新しく立ち上げる頃だった。当時は真空チャンバーのベークという、冷却原子実験の装置を立ち上げる際のかなり初期の段階の作業を進めていた。その後2年半ほど経ち、博士の学生が中心になりデータを取り、ようやく新装置初の論文が(内々で)完成した。この論文がどうなるか、楽しみである。
最近になってようやく初めて査読というものをやった。なんというか、自分のコメントでこの論文の将来が変わるのだと思うと、なんとも荷が重いなと正直感じたが、それを「お互いさま」でやっていくことで世界が成り立っているのだと思うと、その輪にようやく入れたというのもまた誇らしい気もした(みんな、いつ頃から査読する側に回っていくのだろうか)。
どうやら、今までやってきた論文の読み方よりももう一段真剣に、穴が開くように読むということが必要なようだ。書いてあることを批判的に読んでいくのと同時に、書いていないことは何かを丁寧に読み解いていき、建設的な疑問を投げかけていくのだな、と改めて理解した。
最近料理に慣れてきて、慢心してきたのか、刃物で手を切る事件が2件あった。最初は多少なりともビビりながら包丁を握っていたのだが、だんだんリズム的なアレを掴んできたせいで勢い余ってやってしまったのである。何事も、慢心したころが一番危ない。
傷口を観察するのが興味深くて、刃物で切った傷はぐっと押さえると直ちに止血するが、その後また開くということを繰り返している。絆創膏を貼っているが、夜に風呂に入るタイミングで貼り替えようと思って外し、固まっていた血(かさぶた?)が風呂で溶けてまた傷が開くというサイクルを2日繰り返し、学習せえ、と思う。
人体、細胞の集まりでありながら壊れても元の形に修復するというの、謎過ぎる。
半年ほど前にガルシア・マルケスの『百年の孤独』という小説を読み始め、途中で何の話か自分の中で咀嚼できなくなって止めてしまっていたのだが、先日『『百年の孤独』を代わりに読む』という副読本のようなものを見つけたので購入し、『~代わりに読む』を副読しながら『百年の孤独』を読むのを再開した。エンタメ性があるかはさておき、ずるずる読んでしまう魅力はある。作品の中で100年オーダーの時間が経過ので、読むときもゆっくり読むのがいい。
どうも、著者のガルシア・マルケスはノーベル文学賞を受賞しており、授賞理由が
「現実的なものと幻想的なものとを融合させて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する豊かな想像力の世界を構築した」
なのだそうだ(wiki)。
『百年の孤独』は確かにそういう話である。
ただ、ノーベル文学賞知らなさ過ぎて、
「現実的なものと幻想的なものとを融合させて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する豊かな想像力の世界を構築した」!
だから、あなたにノーベル文学賞!
ってどういうノリなんや?と思う。
思いながら、そもそも、「文学」ってどうやって成り立っているのかも分かっていないことに気付く。謎である。
謎が多い。
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