海外でポスドクをしている先輩と久々に会った際、アンパンマン第一話のアンパンマン誕生シーンの話になった。先輩もそのシーンのことをうっすら覚えているようで、僕は記憶を頼りにアンパンマンが如何にして誕生したかを説明し、あーそんなかんじだったね、と談笑した。パン工場の窯の煙突に星が降ってきたこと、窯の扉を開けるとそこにベビーアンパンマンがいたこと。サイズが小さかったということ。浮遊していたということ。おしゃぶりを口にくわえていたということ。そうだったそうだった、と笑った。
その後スマホで「アンパンマン 第一話」と検索してベビーアンパンマンの画像を見たところ、ベビーアンパンマンはおしゃぶりなんかくわえていなかった。記憶ではおしゃぶりをくわえたベビーアンパンマンがふわふわと浮遊している映像があったのに、そんなものは無かった。
東京滞在から京都の自宅に戻り、鞄の中身を整理していたら、イヤホンが見当たらないことに気付いた。無い。ホテルに置いてきた。そう思った数秒、頭の中で、昨晩ホテルのベッドの上にイヤホンを放り投げて置いていた映像、朝起きてホテルから出ていく際にベッドの上を整理せずぐちゃぐちゃのまま出ていった映像が走り、そして記憶のベッドの上に確かにオレンジ色のイヤホンを見つけていた。
その後、鞄の底からイヤホンが見つかった。ホテルに忘れてなんていなかった。そもそも帰りの新幹線でイヤホンを使っていた。数秒の映像はただのフィクションで、そのことに気付くと映像はたちまち消えた。
記憶というのはこの程度の不確かさであって、この程度の不確かさだから自分の都合の良いように、あるいは悪いように変形し、その上に感情がへばりついて沈着する。面倒だが、そういう性質であることを踏まえて人間は自分の記憶と付き合っていくしかないのかもしれない。
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