2015年2月15日日曜日

チューリヒ美術館展


道路工事が多い。近所でもやっている。年度末だからだろう。
という現代社会的時候の文句で書き出されるブログが多く見られるであろう時期になった。

そんな時期(どんな時期)に、神戸市立博物館で開かれているチューリヒ美術館展に行ってきた。
例によって、ネタバレになるし、片っ端から感想を述べていくとかなりの量になりそうなので、あまり作品について詳細を述べることはしないが、簡単な感想を書き留めておくことにする。


休日だったので、混雑を予想していたが、昼の割にあまり込んでおらず、当日券に列も無かった。
2012年に、同じ場所でマウリッツハイス美術館展があった時は、入ってすぐの吹き抜けのホールが全部当日券購入の列になっていたのだが、あれはフェルメールの真珠の耳飾りのんが来ていたからだった。2000年にもあれを見に行ってえらく並んだ記憶がある。えらい違いだ。

展示はというと、-印象派からシュルレアリスムまで- というタイトルの通り、印象派からシュルレアリスムまで数多くの有名な画家たちの作品が、それぞれかなりの数展示されている。
順路に沿って、なんとか派とかなんとかイズムとかの各様式で区切られていて、とても分かりやすく展示されており、この辺の時代の美術の流れをざっと一望できるような感じになっていた。
(それにしてもほんとに目白押しだ。教科書に載ってるやつだ。もうフェスだ。)

この辺の時代、と言っているのはだいたい印象派からシュルレアリスムまでくらいの時代なのだが、この辺の時代になってくると、「いよいよ人間は何かよくわからない物を対象にした作品を生み出すことになった」という時代に入ってきた感があって、もしくは、対象は確定していてもそれを表現する手法としてかなり飛んだやり方をするようになった感があって、僕は好きだ。
あと、「この人はこんな感じの作品」っていうのが分かりやすくて、気難しく構える必要もなくて楽でもある。ゴッホはゴッホだねって感じだったし、シャガールは「またやってるよw」って感じだったし、ピカソは「あーなるほどね」って感じだった(まるで説明する気が感じられないが素直な感想である)。

さて、シュルレアリスムのコーナーに展示されていたのは、
キリコ、エルンスト、マグリット、ダリ、タンギー、ミロ。
強い。
みんなそれぞれのやり方で際立っていた。それぞれで感想文1記事分書けるわ(書かないけど)。
特に、ミロの方向性のシュルレアリスムは最近気になってたやつで、なぜかというと、ブルトンの自動筆記の流れに近いものだから。マグリットのような作品が絵画的にはシュルレアリスムの代表として見られがちだけれど、文学的なシュルレアリスム(元祖的な?)であるところの自動筆記の感じはあまり感じられない、というなかで、ミロの作風はかなり自動筆記的であって、これは一回見てみたいと思ったところだった。
そうは言っても、実際目の当たりにすると、やっぱり意味不明だし、これが評価されてこうやって展覧会で多くの人の目に触れられているなんて、自分も含めみんな何かに洗脳されているのではと言った気さえするのだ。
シュルレアリスムの謎である。
とにかく、あの一角を見ただけで満足感にあふれたし、キリコ展に行かなかったことを後悔したし、ダリ展に行った時のことをすごく思いだしたし、マグリット展が楽しみで仕方がない。


ショップで、モンドリアンのコンポジションTシャツを購入した。

このブログ、だんだんアートとかデザインとかの方面に流れていっている感じがするなあ。一過性かなあ。様子を見よう。

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